“Valzer” – Fugo

ぼくは、この時間が好きだった。
 ブチャラティとぼくだけが事務所に詰めていて、ふたりでそれぞれ書類と睨み合うこの時間。
 紙をめくる音と、考え込んだ彼がたまにトントンと指で机を叩く音、それ以外はほとんどなんの音もしないこの時間。このシーンだけを見た人間はきっと、ここがギャングのアジトだなんて思いはしないだろう。普段まみれている暴力と暗闇、埃の臭いからは、この空間はひどく遠い。
 こうしていると昔のことを、ブチャラティとぼく、ふたりきりのチームだったころを思い出す。
 彼はとてもぼくとの距離を保つのがうまかった。ひとりにしておいて欲しいときはそっと離れ、話をしたいと思っている時にはそっと近づいてくれる。まるで人の心が読めるかのように、彼の行動はいつだって的確だったのだ。だからこそ、気分の浮き沈みが激しいぼくが彼とふたりきりでも、共に仲間として過ごし続けることができたのだ。それから少しずつ増えた仲間たちは頼もしく、ひとりだって欠けてはならない存在であるのはたしかだが、……この書類仕事だけは変わらずぼくとブチャラティの担当だった。他のやつらがデスクワークには向かないというだけかもしれないが、それでもぼくだけの仕事として彼に変わらず任されているという状況がどこか嬉しかったのだ。
 だが、やることが積み重なっていくとそんなささやかな喜びに浸っている事もできず、ぼくは目の前の資料にかじりつきながら数字を転記して計算して地図を睨みつける、という作業を繰り返していた。

「……もしも死ぬ時がきたら、あいつの知らないところで死にたい」

 しんと静まり返った事務所の沈黙を破った突然の言葉に、ぼくは睨みつけていた書類から怪訝な顔をしながら顔をあげた。
 視線を向けられても返事する気はまだないらしいブチャラティは、さっきまで部屋の奥のデスクに向かっていたはずだった。だが今の彼は部屋の中央に置かれた応接兼休憩用のソファに腰掛けている。その口元に組んだ手のひらを押しつけて、ぼくの方は見ないまま真面目くさった顔でその唐突な言葉を続ける。
「……そうすれば、オレはきっとあいつの中で永遠に生きられる。……そんなのは子供じみた祈りだとわかってはいるんだ。もちろんオレのことなんて忘れてくれていい、だがいつか何かのおりに、ああそんな男もいたと、いつの瞬間か思ってくれるだけでいいんだ」
 組んだ手を口元に押し付けていたのを解くと、彼は今度はぼくの方をまっすぐ向いた。

「だからなあ、フーゴ」
 ああ、この言い方。何か嫌な予感がする……。

「……オレが死んだとしても、どうかそれを彼女に伝えないでくれ。隠し通してくれると嬉しい」
 やっぱりそうだ! 本当に、……ろくなことじゃあない。ぼくにそんな仕事を頼んできやがるなんて、……この人は、本当に、何を考えているんだ。
 話を聞きながらも事務作業をこなし絶えず動かしていた手を止め、眉を寄せつつ、何か苦いものをかみつぶしたような歪んだ表情で彼を見つめ返す。
「……あんた……、なんでそんなことぼくに言うんだよ……」
 ……自分の口から出てきた言葉は、ぼくが想像していたよりも揺れていた。端的に言えば非常にわかりやすく辛そうに聞こえる響きをしていた。そのせいで、返事を聞いたブチャラティもまたずるい笑い方で返してくるのだ。……ひどく傷ついた人間が浮かべる、諦念にも似た笑い方だ。
 彼が何に傷ついたかって? そりゃあ、ぼくがその言葉で傷ついたということを知っていて、それでも〝お願い〟をしたのだとわかってしまったからこんな顔をするのだ。それでも、彼は続ける。
「何で、って、そりゃあ…………お前になら任せられるからな、あいつを」
 お前になら。こんなことを言われたら、喜ばない人間はきっといないだろう。あのブローノ・ブチャラティにそんな風に心からの信頼を見せつけられれば。
 嬉しくないとは言わないが、ぼくはその「きっと」から漏れた人間だった。
「……いやですよ、そんなの」
「……いやか」
 彼はおうむ返しするかのように、どこか幼いやり方で呟く。
「嫌です、そりゃあぼくたちはろくな死に方できないとは思いますけど、……そんなことを今から言われるのは、ぼくが嫌なんだ」
「すまない。悪かった」
「わかっていただければいいんですよ。……上司のお願いつっぱねるのも、どうかとは思いますけど」
 ブチャラティはこっちが悪いんだすまなかった、そう呟いて、デスクには戻らず部屋の真ん中のソファに腰掛けたまま、さっきまで眺めていたはずの書類を再びめくり始めた。
 彼の真剣な眼差しをたどる。さっきの言葉は突然思いついただけの、ただの気まぐれだったのだ、そう思えてくるくらいには、もう彼は「いつも通り」のギャングチームのリーダーの横顔になっていた。(そうは言っても、彼はいかにもギャングらしい、なんていうにはあまりにも優しすぎて、聡明すぎるのだが)だがきっとそうじゃない、……ただの思いつきで彼はぼくにあんなことは言わない。

 ——さっきの……自分が死んだら、というような、この手の話はときたま彼の口から飛び出した。大概はふたりっきりのときに突然言われるのだ。ぼくはまともに聞く気もなく、(正しく言えば聞きたくなかった、だが、)ふたりの間だけのたちの悪い冗談みたいな扱いだったから、彼も不用意に口にしたのだろう。ぼくも聞かないふりが出来ていたあいだはよかったけれど、今日はあまりの忙しさと、その内容のせいでうまく避けることが出来なかったのだ。そして真正面からぶつかってみた結果……ぼくはこれまでそんな言葉たちを聞き流しながらもきっと、聞かされるたびに小さく傷ついていたことにようやく気づいた。
 そして、オレが死んだらあれを頼むこれを頼むという彼の依頼、部屋を片付けてくれとかなんとか、その内容なんかは時々にバリエーションが違うのだが、今回になって初めて誰か「相手」の話が出たなとふと思う。
 ……「相手」、か。
 ぼくはそのことを考えて、唐突にぐらりと自分の感情が揺れるのを感じていた。……その波は本当に、唐突だった。
 不安にも似た感情がどこからともなく現れて、ぼくは自分自身で戸惑ってしまう。端的に言ってしまえば、……不快感、なのかもしれない。先に死ぬことを近い未来の確定事項として語られることにではなく、……顔も見たことない彼女の話で、ぼくは何を感じているって言うんだ——?
「…………」
 少し考えるだけで、答えはすぐに見つかってしまった。だって、我ながらあまりにもわかりやすすぎた。……それは言うなればきっと、チームの他のやつらもいない、ぼくとブチャラティ、ふたりきりの特別な空間に突然〝彼女〟という存在が入り込んできたという異物感だった。
 そうだと理解してから、自分がブチャラティを一瞬でも独り占めしたいと、そんな子供じみた願望を持っていたことに初めて気づいてしまって顔が熱を持ち始める。クソ、せめてあいつらが一緒にいるタイミングで言われたんならきっとこんなこと思わなかったはずだ、……ぼくが考えていた以上に、この静かな時間をぼく自身が特別に思っていたからこそこんなことになっているのだ。
 それでも、なんていうか、……こんなの本当に、子供じゃあないか! 見たこともない彼女に、兄や友達を取られたみたいなそんな感覚持ってるんじゃ——。

「……よく、彼女とお前の話もするんだ」
 ふと、ブチャラティが静かにつぶやく。……まただ、ぼくの感情はやっぱり彼に読まれているのか? そんな気持ちになりながら、続くはずの言葉を黙って待つ。
「……一番はじめに仲間になってくれたやつで、一番頭が切れるんだ、ってな。あと、紅茶を淹れるのがうまいと」
「……うまい、ってほどかは、わかりませんけど……」
 確かに、ブチャラティはぼくが淹れた紅茶を喜んで飲んでくれる。その紅茶の淹れ方は、かつて親に叩き込まれたものだ。ぼくにとって親のために強制されたという意味以外を見出せなかった事に、ブチャラティは特別な意味をもたせてくれるのだ。自分で選んだわけでもなく苦い記憶しか残っていない物事も、この人を喜ばすことができるんだったらまあ少しは意味があったのかもしれないと思い直すことができた。彼にはぼくにそう思わせる力があった。
「いいや、オレは紅茶に特別こだわりってのがあるわけじゃあねえが、お前のは特別うまいんだ。……オレも真似してみようとはしてるんだがな。何度やっても〝フーゴの紅茶〟にはかなわない」
「……そんな、そこまで褒められるようなものじゃあないですよ」
 いやいや、そうぼくの言葉を遮るように大仰に彼は首を振ってみせると、嬉しそうにつづける。
「どっかの店で紅茶を頼んだときだってそうだ、まだだ、まだこれは〝フーゴの紅茶〟には勝ててない、って話をあいつにもするんだ。だからあいつはお前の紅茶を飲んだことはないわけだが、オレの話を聞いてるうちに、なんかあると『これは〝フーゴの紅茶〟より上か下か?』って聞くようになってきた」
「は……? なにやってるんですかあなたは……」
 自分自身が会ったこともない相手との会話の中で、知らない間にそんな扱いされていて半分呆れたような顔になるぼくに、ブチャラティはなぜか得意げな顔で笑う。
 だがそうやって、彼がぼくのことを知らないところで「彼女」に話しているのだと思うと、……単純だが、正直言って嬉しい気持ちになるのも事実だった。(ブチャラティが彼女からしたら知らない人間の話ばかりして、そんなの退屈じゃないだろうか、大丈夫なんだろうか、という気持ちには少しなるけれど)
「オレはただ愛すべき部下の話をしてるだけだぜ。……いつか本物の〝フーゴの紅茶〟をうちに飲ませにきてくれ。礼はするから」
「……まあ、別に、かまいませんが……」

 だけど、そんな風に返事をしてから、これはぼくと彼女を引き合わせておいてスムーズにさっき言った計画を実行させようという作戦なのではないか? 褒め言葉は素直に受け取っておくが、同時にはたとその可能性に気付いてしまう。
「…………さっきの話、何かあってもあなたがどこかで生きてたらいいな、って、彼女が思うだろうってのも、……わかりますけど」
「うん?」
「……いなくなってもどこかで元気でいるだろう、なんて思えないとおもいますよ。あなたがチャランポランな遊び人ならそうやって夢想できるかもしれないけれど、……あのブローノ・ブチャラティですよ。そう願うには、あなたは誠実すぎるんですよ」
 すごくマメだし、そう続ければ、彼はキョトンとした顔をして見せてから、表情をやわらかく崩して笑った。
「そうか、作戦は失敗か」
「……失敗するでしょうね」
「オレの参謀が言うなら間違いねえな」
 彼の言い方はふざけている時の言い方だったけれど、だが言ってから気づく。
 そんなのは、……何があっても痛みを引き受けろと言ってるようなものだった。別れを、彼女を一人残していくことを。
 彼がぼくにだけこぼす夢のような、どこか与太話のようなお願い。夢にするにはあまりにも切実で、現実に近すぎるその言葉は、彼本人も難しいと思いながら呟いたものなのではないだろうか。そうなれば、事実を百も承知でそれでも呟かずにはいられなかった彼への追い討ちになるのでは——?
「だ、だから」
 思わず慌てたように続ける言葉を、ブチャラティはじっと静かに聞いていた。
「そんな事にならないよう、この先せいぜい死なないようにするしかないでしょう、ぼくたち」
 ……ああ、自分でとっさに口にしてからようやく気づく。——〝この先〟。
 彼のこれまでの日々は、悲しみと優しさに彩られていた。そして彼が大切なものについて語る時、それはいつだって〝過去〟にしかなかった。
 昔のことを話す時のブチャラティは、彼がかつて直面した事象はどう考えたって悲劇のはずなのに、確かにある麻薬への怒りとも切り分けられた、柔らかに満たされた表情、父親への愛で満ちた顔をしていた。その表情を見るたびひどく不思議に思っていた。両親に対してろくな感情を抱けない境遇のぼくからすると、なぜ、失ったその後でさえもそんな顔できるのかと不思議だったのだ。
 喪失は確かにあった、……だが、彼はそれがすべてだと思っていない。確かにそこにあったしあわせと、息子として愛された記憶の方を大事にしているから、たどり着いた先の悲しみが色濃くとも彼はそれまでの記憶を支えに生きてこられたのだ。
 ……ただ、残されることには耐えられても、残していくことは辛いのだと気付いてしまったのかもしれない。今更、ようやく。
 〝過去〟の思い出を大切に抱えていくだけでなく、その先があると気づいたからこそ、きっと彼はそんなことを言い出したのだ。
 ……ブチャラティはぼくよりもきっと幸福に慣れているはずなのに、大切な相手ができた今、どうしたらいいかわからなくなって答えを探しているみたいに見えた。
 幸福は、優しさは、寛大は、すべてただ享受すればいいと教えてくれたのはブチャラティなのに、彼自身がときたまあまりにも不器用な面を見せるから、ぼくこそどうしたらいいかわからなくなってしまう。だがもう伝えてしまった言葉を取り戻すことはできないのだから、傷つけるかもしれないとわかっていながらさらに言葉をひとつ重ねる。
「少なくともぼくは、あなたを失うわけにはいかないし、……あなたの恋人を泣かせないためにはそれしかないでしょう」
 隠し通すなんて、無理ですからね。そう続ければ、ソファ越しにブチャラティは眉を下げて、どこか泣きそうにも見えるやり方で少しだけ微笑んだ。